ベトナムの歴史

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ベトナムが歩んできた歴史とは?
(地域ごとの歩み 〜 全国統一 〜 近代史)

ベトナム人のルーツは、中国大陸から南下した中華系であるとの見方が主説としてありますが、いろいろな説もあり現代でも明らかになっていない部分は多いです。ですが、その未知なるルーツを独自に考えながらこの国を見ることで、悠久の歴史の中で繰り広げられてきた壮大な浪漫を感じます。

ベトナムは南北約2000㎞の長い国土を持つ国であり、現在は全国がひとつに統一されていますが、かつては北部・中部・南部とそれぞれの地域で存在した王朝がありました。ベトナムの歴史は、日本と同じ石器時代から始まりますが、その後、文明を持ち始めると、それぞれの地域で、周辺諸国の文化の影響を受けながら発展していきました。


北部の歴史:中国王朝

ベトナムの北部は、アジアの大国・中国の南に陸続きで位置していることから、中国王朝の領土としての歴史が長く、中国文化の影響を色濃く受けながら発展してきた地域です。1100年ほど前に、呉朝(ごちょう)というベトナム独自の王朝が、初めて北部地域に誕生しました。その後も主に中国王朝の支配下として → そして独立を繰り返しながら現代へ至ります。

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北部: 首都ハノイのホアンキエム湖


中部の歴史:チャンパ王国

ベトナムの中部では、オーストロネシア語族(*台湾原住民、東南アジア島嶼部、太平洋の島々に広がる語族)系統の古チャム人(現代のカンボジア、ベトナム中南部に居住するチャム族の祖先とされている)が中心に築いていた王国:チャンパ王国が独自の文化を形成しながら発展を続けました。

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中部: ダナン近郊 ミーソン遺跡(チャンパ王国の聖域)


南部の歴史:クメール王朝

ベトナムの南部は、古来より現在のカンボジアの元となる:クメール王朝やクメール人の古代国家シンロウ王朝などが、長年 南部地域を統治してきました。ベトナムの北部・中部とはまた違った歴史を歩んできたこの南部地域ですが、北部地域が中国王朝の影響を色濃く受けて発展したように、南部地域は、カンボジア(クメール王朝)の影響を受けながら独自の文化を形成してきたと言えます。

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南部: ベトナム最大の経済都市 ホーチミン


全国統一

前述でご紹介したように、現代では一つの国でありながら、それぞれ異なる文化の影響を受け、独自の文化を築いてきたベトナムの北部・中部・南部の各地域では、悠久の歴史の中で様々な歴史的人物や英雄が登場し、群雄割拠の時代を経て、統一と反乱を繰り返しながら、1つの統一国家への道を歩んで行きます。

そして、ベトナム最後の王朝としてもよくその名を聞く阮朝(1802 – 1945)が、1830年代に全国を再統一して、現代ベトナムの元となる統一国家を築いたのです。

フランス植民地時代から第二次世界大戦、第一次インドシナ戦争、そしてベトナム戦争へ

阮朝がベトナムを一つにまとめてからまもなく(1847年)、当時、世界列強の一つであったフランスが世界にその領土を広げようとベトナムの中部・ダナンに侵攻しました。その後、侵攻するフランス、スペイン、国を守るベトナムや、長年ベトナムを領土としていた中国など、各国を巻き込んだ戦いが繰り広げられ、最終的に勝利したフランスに、ベトナムは1885年から約60年間も(フランス領インドシナ連邦として)植民地支配を受けることになりました。

その間、ベトナム国内では反仏運動などの運動が繰り広がられ、第二次世界大戦の終焉をきっかけに、ベトナム建国の父であり、独立運動を指揮してきた「ホーチミン」氏と独立同盟が、「ベトナム民主共和国」を樹立、独立を宣言して長年のフランス植民地支配から独立を勝ち取ることができました。

ベトナム民主共和国(北ベトナム)を建国後も、南部を拠点にベトナムに軍事力を残し続けるフランス(南ベトナム)と、ホーチミン氏率いる北ベトナムとの間で再び争いが起こります(第一次インドシナ戦争)。

結果、フランスが敗北するものの、この戦争をきっかけに、ベトナムは「北ベトナム」と「南ベトナム」に、国土を分断することになりました。

北と南に二分化されたベトナムを武力によって統一しようと、北ベトナムの支援の下で結成された、南ベトナム開放民族戦線(反サイゴン政権組織)を中心に、再び南北の間で内戦が始まりました。

社会主義国であるソ連や中国の後ろ盾を受けた「北ベトナム」に対して、資本主義国筆頭国のアメリカが1963年に「南ベトナム」に軍隊を送ることでついに軍事介入を行い、もとは分断した国を統一するための内戦が、アメリカを加えた大きな戦争へと発展したのです。

人々は、この戦争を「ベトナム戦争」と呼びます。

ベトナム戦争は、第二次インドシナ戦争とも言われ、アメリカ以外にほんの40年ほど前まで行われていた戦争ですから、皆さんの記憶に新しい出来事ではないでしょうか。

このベトナムを舞台に南北で繰り広げられた全国統一の内戦、社会主義国と資本主義国の争いは約10年間も続きました。

1975年に、サイゴン(現ホーチミン市)の大統領官邸に2台の戦車が突入、

この大統領官邸が没落することで、アメリカ、イギリス、フランス、カンボジア、ラオス、フィリピン、中国、韓国、タイ王国、オーストラリア、ニュージーランドなど、世界各国を巻き込んだ歴史的な戦争に終止符が打たれました。

戦後、ベトナムは社会主義国でありながらも、ドイモイ政策を推進することで、積極的に資本主義の風を取り入れ、戦災から社会的・経済的にも急速な復興を遂げ、現代でも著しい経済発展を続けながら、東南アジアの有力発展途上国として、世界中からの投資・注目を集める一国となりました。

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ベトナムの経済:

前述にもありますが、ベトナムの経済事情について調査すると、ドイモイ政策」という言葉を必ずと言って良いほど見かけます。

ドイモイ政策は、ベトナムの経済成長を語るに、外すことのできないキーワードであり、
このドイモイ政策がベトナムの発展に寄与したことは間違いないと言えるでしょう。

「ドイモイ政策」*Chương trình cải cách “Đổi mới” は、
1986年の第六回共産党大会で唱えられた経済面、社会思想面、またその他の側面から成る改革プログラム、スローガン
です。

ベトナム国家はこの政策を通して、体外経済開放の導入官→民への転換 など、新たな資本主義思想を取り入れ、社会主義体制を維持しながら、国全体の発展を目指しました。

ドイモイ政策の効果は、GDP成長率の推移から見てもよく分かるように、1980年代の後半から現れ始め、
1992年~1997年の6年間で、およそ8 – 9.5%を維持するなど、さらに飛躍的な成長を遂げました。

2000年代後半には、リーマンショックやその後しばし続く世界不況の影響を受け、

また2011年には、政府の意向が急速な経済成長推進路線から、経済引き締め路線へと変わり、インフレ抑制や為替変動抑制など、マクロ経済の長期安定化を目指した取り組みへとシフトしたことから、ベトナムの経済成長率は若干落ち着いたように見えるものの、

この10年(2007-2017)で平均6%のGDP成長率を誇るなど、東南アジア諸国の中でも安定した経済発展を続けています。
(*2017年のGDP成長率:6.5%)

ベトナムの二大経済都市であるホーチミンやハノイを見ると、街の中心部や郊外では超高層ビルが立ち並び、マンションや商業施設を併設した大型複合施設が次々と建設され、また便利で新たな外資サービスが 日々ベトナム市場へと参入し、経済成長と共にベトナムの社会が、ベトナムの人々の生活が 大きく変化していることを感じることができます。

そんなベトナムは、2007年1月にWTOへ正式加盟 を果たしました。また諸外国との経済連携協定(EPA)/自由貿易協定(FTA)提携へ向け積極的に動き(*直近ではTPP交渉にも参加)、国際経済の中でベトナム市場の位置づけを確固たるものにすべく努力を続けています。

現地でベトナムという国を肌で感じると、そこが社会主義国であることを忘れてしまいそうな市場経済や市場競争の場面や情景を体感することがありますが、それは1980年代の「ドイモイ政策」思想が現代でも維持され続けているからであり、今もなお続く急速な経済成長の底力となっているのです。