【ベトナムの歴史探訪】ベトナム北部と中国王朝──千年を超える交錯の記憶

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ベトナム北部と中国王朝──千年を超える交錯の記憶

以下のページでは、ベトナム全体の歴史を概観しましたが、本稿では特にベトナム北部の歴史に焦点を当ててご紹介いたします。
https://vietnam-shinshutsu.com/vietnam-history/

● 地理的要因と中国との接触の始まり

 ベトナム北部は、アジア大陸の南端に位置しながら、中国文明の南の門として、常に歴史の奔流と正面から向き合ってきた土地です。現在のハノイやバクニン、ハイズオンを中心とする紅河(ホン川)デルタ地帯は、古代より水資源に恵まれた肥沃な平野で、稲作文化がいち早く定着した地域でもあります。この豊かな自然環境は、多くの人々を引き寄せ、早くから部族社会や小規模な集落国家が形成されていました。

 しかし、その地理的な恵まれは、同時に強大な文明との接触を避けられない運命でもありました。北に広がる中国大陸とは山脈や国境線を挟んで接しており、現在の雲南省や広西チワン族自治区と接するこの地は、中国王朝から見れば「文明の南限」、あるいは「文化の及ぶ辺境」として、常に関心の対象とされていたのです。
中国の視点からは、そこは未開の蛮族が暮らす土地でありながらも、交易と軍事の要衝として征服すべき価値のある場所と映っていました。

 実際、紀元前3世紀末には、秦の滅亡後に南方へ勢力を広げた武将・趙佗(ちょうた)によって、「南越(ナムヴィエット)」という多民族国家が建てられ、ベトナム北部もその支配下に組み込まれました。南越は、中国的な官僚制度と現地の文化を融合させた独自の統治体制を敷いており、この段階ですでに両文明の接触と交錯が始まっていたことがわかります。

 しかしこの南越も、紀元前111年、漢の武帝による南征によって滅ぼされました。こうしてベトナム北部は中国中央政権の直轄領となり、「交趾(こうし)郡」などの名で正式に帝国の支配下に置かれることとなります。この出来事をきっかけに、ベトナムと中国の関係は単なる隣国同士という域を超え、文化と政治が複雑に絡み合う、長く深い主従の歴史へと突入していきました。

 以降、約1000年ものあいだ、ベトナム北部は中国の歴代王朝(漢・晋・隋・唐など)によって統治されることとなります。この「千年の支配」は、軍事的な占領にとどまらず、文化的・制度的な広範な影響をこの地にもたらしました。儒教は官僚登用の基礎となり、漢字は公的な書記言語として根付き、仏教や道教も中国を経由してベトナム社会に浸透していきました。行政制度や課税、家族制度、教育体系など、あらゆる領域に中国的な枠組みが導入されました。

 それでも、ベトナムの人々はこれらを一方的に受け入れたわけではありません。自らの伝統と誇りを手放すことなく、中国の制度や文化を自分たちの社会に合う形で取り入れ、次第に独自の文化的融合を遂げていったのです。ベトナム北部はまさに、「支配されながらも、自らの核心を失わなかった地域」であり、文化的な主体性を堅持し続けた土地でした。

 このように、ベトナム北部という地域は、東南アジアの中でも特異な位置を占めています。中国に最も近く、最も影響を受けながらも、最終的には自らの国家としての道を切り開いてきた歴史が、この地には刻まれています。中国という巨大な文明の影に包まれながら、ベトナムはその中で独自の光を放ち、自らのかたちを築き続けてきたのです。

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● 千年にわたる直轄支配と文化の浸透

 中国王朝の統治は単なる軍事的な占領ではありませんでした。彼らはこの南方の地を「交趾郡」や「日南郡」などの行政区画として制度化し、現地の支配構造に漢族の官僚制を導入しました。儒教の道徳観念が教育の根幹に据えられ、仏教もインドからではなく中国を経由して伝来し、寺院や学堂が次々に築かれていきます。

現地住民の中には中国語(古典漢文)で詩を詠み、漢字で訴状を書くことを学ぶ者も現れました。中国王朝は現地有力者を「土官」として取り立て、間接支配を進める一方で、反乱や反抗の芽は徹底して摘み取る体制も整えていきました。

● 抵抗の精神:徴姉妹から始まる民族意識抵抗の精神:徴姉妹から始まる民族意識

こうした中国化の動きに対し、現地の人々が完全に同化したわけではありません。むしろ、外国勢力による抑圧が続く中で、民族意識の萌芽が生まれていきました。その象徴ともいえるのが、西暦40年頃の「徴姉妹(チュン・チャックとチュン・ニ)」による蜂起です。徴姉妹は父の敵討ちと民族の独立を掲げ、当時の中国軍を一時的に打ち破り、ベトナム北部の広範囲を掌握しました。

この反乱は最終的に鎮圧されたものの、ベトナムの歴史において“初めての民族的抵抗”として語り継がれ、現代のハノイにも彼女たちを祀る祠が残されています。女性の指導者が軍勢を率いて立ち上がるという事実自体、アジアの歴史の中でも極めて特異であり、後世の独立運動に影響を与える精神的基盤ともなりました。

● 独立王朝の夜明け──呉権とバクダン河の戦い

10世紀初頭、中国は五代十国時代という内乱期に突入し、中央の統制力が著しく低下しました。この隙を突くように、938年、ベトナムの将軍・呉権(ごけん/ゴ・クエン)は、バクダン河において南漢軍の大軍を奇襲し、撃退に成功します。この戦いこそ、事実上の中国支配からの解放であり、呉権は翌年、自らを「王」と称して呉朝を開きます。

呉朝は短命に終わったものの、これを契機としてベトナムは本格的な独立国家の時代に入り、李朝、陳朝、黎朝といった王朝が連綿と続いていきます。彼らは中国の制度を踏襲しつつも、ベトナム独自の法制や儀礼、言語文化を発展させていきました。

● 中国的伝統とベトナム的創造の融合

独立後も、中国との関係は完全には断たれたわけではありません。歴代ベトナム王朝は形式上、中国皇帝に朝貢し、冊封体制の中に身を置くことで国際的な正統性を得ようとしました。この体制の下、ベトナムの王は中国皇帝から「安南都護」や「国王」といった称号を授けられながらも、内政においては完全に独立した政策を展開しました。

興味深いのはこの時代、ベトナム人が中国の漢字をベースにしながらも、ベトナム語の音を表記するために「チュノム(字喃)」という独自の文字体系を編み出した点です。これは中国語を母語としない民族が、自らの言葉を記録・表現しようとする強い文化的意志の現れでした。

● 結び──ベトナム北部に息づく「千年の対話」

中国王朝の支配と、それに抗うベトナム人の独立への意思──この二重構造が、ベトナム北部という地域の歴史的特徴を形成してきました。千年の支配と千年の抵抗が重なり合い、融合と拒絶の両方を内包するこの地は、今日のベトナム国家の原点ともいえる存在です。

ハノイに建つ文廟(ぶんびょう)や儒教の祭祀、街角に並ぶ漢字の石碑などは、その名残を今に伝えています。同時に、現代ベトナムにおける国家意識や民族の誇り、そして教育制度や文学にまで、中国と向き合ったその長い歴史の痕跡が息づいています。ベトナム北部の歴史は、ただの「支配された過去」ではなく、「文化を受け継ぎ、自らを再構築し続けた民族の歩み」なのです。