【ベトナム歴史探訪】ベトナム南部とクメール文明──南部に広がる時の地層

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ベトナム南部の歴史とクメール文明──南部に広がる時の地層

以下のページでは、ベトナム全体の歴史を概観しましたが、本稿では特にベトナム南部の歴史に焦点を当ててご紹介いたします。
https://vietnam-shinshutsu.com/vietnam-history/

他にも、ベトナム北部や中部の歴史についてもご紹介しております。
あわせてご覧いただけますと幸いです。

【ベトナムの歴史探訪】ベトナム北部と中国王朝──千年を超える交錯の記憶

ベトナム中部とチャンパ王国──砂と海が語る神話

現在のホーチミン市を中心としたベトナム南部。この地は、北部や中部とは異なる独自の歴史的軌跡をたどってきました。稲作文化が根付き、メコン川の恩恵を受けて肥沃な大地が広がるこの地域は、かつて古代クメール人が築いた国家──**扶南(フナン)や真臘(シンロウ)**を起源とするクメール王朝の支配下にあり、長きにわたりその文化的影響を受けてきたのです。

● はじめに:豊穣と共生の舞台となったベトナム南部

ベトナム南部は、国土の中でも最も広く開けた平野部を有し、メコン川が形成するデルタ地帯によって育まれた豊かな自然と多様な民族が共生する地域です。この地は、古くから文明の往来が盛んな交差点であり、多くの外来文化が流れ込み、それらが複雑に融合してきた歴史を持っています。

北部・中部とは異なり、中国王朝の支配を直接受けることが少なかった分、インド文化やクメール文明、そして後のヨーロッパ植民地支配の影響が顕著に見られます。こうした多重的な文化的背景が、ベトナム南部の歴史をひときわ魅力的なものにしています。

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● 海洋ネットワークと古代扶南王国の繁栄

 紀元1世紀頃、現在のベトナム南部からカンボジア南部を中心に、扶南(フナン)王国と呼ばれる港市国家が成立しました。扶南王国は、東南アジア最初期の国際交易国家として知られ、中国、インド、ローマ帝国などとも交易を行っていた記録が残されています。この王国は、海洋ネットワークを活用し、沿岸部の港を通じてインド洋と南シナ海をつなぐ重要な中継点となっていました。

文化的には、インドから伝わったヒンドゥー教や仏教が定着し、サンスクリット語の碑文や神像、ヒンドゥー様式の建築物が多く残されています。扶南の支配層は、インド的な王権思想を受け入れつつ、現地の習俗と融合させた独自の文化体系を発展させました。これらの影響は、現代の南部においても、寺院の装飾や儀礼の中に色濃く反映されています。

● クメール文化圏との連関──真臘とアンコールの時代

扶南王国の衰退後、後継として登場した真臘(しんら/チェンラ)王国は、より内陸に勢力を広げながらも、南部の沿岸地域を支配下に置いていました。この時期、南部はクメール文明の強い影響を受け、寺院建築や宗教儀礼、神話体系など、クメール文化の諸要素が根づいていきます。やがて9世紀から15世紀にかけては、カンボジアのアンコール朝が東南アジアの大国として君臨し、その文化圏が現在のホーチミン市周辺やメコンデルタにも及びました。

この影響は今日のチャーヴィン省やソクチャン省にあるクメール寺院や、クメール語を話す人々の伝統文化の中にも見出すことができます。また、クメール系住民によって守られてきた「オク・オム・ボク祭り」や「水祭り」などは、南部の多文化的な宗教観の象徴でもあります。

● ベトナム民族の南下──「南進政策」の展開

17世紀から18世紀にかけて、ベトナムの阮氏政権によって「南進(ナムティエン)」と呼ばれる政策が進められました。この過程で、ベトナム人(キン族)は南下を続け、南部のチャム人やクメール人との接触を深めながら、新たな定住地を築いていきました。こうして南部は、少しずつベトナム王朝の領土として取り込まれていくことになります。

この時期に発展したのが、後のサイゴン、つまり現在のホーチミン市です。当初は小さな港町に過ぎなかったサイゴンは、阮氏政権による開発によって、経済的・軍事的な拠点へと急成長しました。南部の地形が稲作や農業に適していたこともあり、多くの移民がこの地に流入し、人口も急増しました。こうしてベトナム南部は、国家的な統一における重要な要として位置づけられるようになりました。

● 多民族共生の歴史と文化

ベトナム南部の歴史は、多民族の共存と融合の物語でもあります。キン族を中心にしながらも、クメール族、華人(ホア族)、チャム族、その他少数民族がこの地に共存してきました。それぞれが独自の宗教、言語、風習を守りながら、南部社会の多様性を育んでいます。

華人は17世紀以降、明朝の滅亡を契機に南部へと移住し、特にホーチミン市のチョロン地区などで経済活動を活発化させました。チャム族はチャンパ王国の末裔として、一部はイスラム教を信仰し、独特の文化を継承しています。クメール族はメコンデルタ地域で稲作や漁業に従事し、クメール語と仏教を通して独自の生活世界を築いています。

このような民族の共生によって、南部は宗教儀礼、建築様式、食文化、衣装など、多彩な文化的表現を内包する地域へと成長してきました。

● 近代から現代へ──植民地支配と戦争の記憶

19世紀末、フランスによるインドシナ植民地政策の下で、南部は「コーチシナ」として最初に植民地化されました。特にサイゴンは、フランス風の街並みが整備され、「東洋のパリ」と称される近代都市へと変貌しました。鉄道、港湾、教育機関などが整備され、南部はベトナム全土の中でも近代化の先頭を走る地域となりました。

しかしその後の20世紀には、南部は激しい戦争の舞台ともなります。フランス植民地支配からの独立運動、そしてアメリカとのベトナム戦争において、ホーチミン市は南ベトナム共和国の首都として国際的な注目を集めました。この時代に起きた激しい戦闘、社会の分断、民間人の犠牲などは、今日でも語り継がれる南部の痛みの記憶です。

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● むすび:未来へつながる南部の歴史

ベトナム南部の歴史は、単一の王朝や民族による直線的な歩みではありません。インド・クメール・中国・ヨーロッパといったさまざまな文明の影響を受けながら、多様な民族が共存し、共鳴しながら歩んできた重層的な時間の積み重ねです。過去の戦争や支配、文化的摩擦のなかでも、人々は互いの存在を受け入れ、独自の文化と調和を築いてきました。

今日、ホーチミン市をはじめとする南部の都市は、グローバル経済の中心として目覚ましい発展を遂げています。しかしその足元には、古代の港市国家の夢、クメール寺院の静けさ、多民族が織り成す音楽と祭り、そして幾度となく困難を乗り越えてきた人々の歴史がしっかりと息づいています。ベトナム南部の歴史を知ることは、この国の多様性と未来への可能性を感じることにつながるのです。